自我、境界線
最近自殺者の心境が、少しだけ分かる気がする。
自殺者と言っても色々あるだろうけど、一生かかっても返せない借金とか背負ってるような人でなく、一見するとなんの不自由もないような人。
そもそも何故生きてるんだろうという、根本的なことを考え出すところから始まる。そして生まれた理由はあっても、生きる理由などないという結論に達する。
誰もが特別でなく、誰もが使命など持たず、ただ生まれ子供を残し死んでいく。そのサイクルの一瞬に過ぎない。
ここで「生きることに意味がないならできるだけ楽しく生きるべきだ」という結論を出すのは簡単だ。しかしそれで納得できるのは自我の強い人間だけ。
人との繋がりが希薄になりがちな現代において、自我を強く持つということは思いのほか苦しいことなのかもしれない。
自分が特別でないと認識することは、当たり前に生きることを困難にする。
自己顕示欲が薄れ自暴自棄になりがちになる。
それでも肉体的欲求により最低限の自我は保たれる。
寝ているだけでもお腹が空くし、お腹がいっぱいになれば眠くなるし、性欲を満たしたいとも思う。けどそれだけ。そこに自己主張はない。
自分という存在は薄れ、生きていても死んでいても同じと思うようになる。
生きて他の動植物を糧にしている分、生きている方が悪いと考えるかもしれない。そうなればこの世界に留まる理由はなくなり、自我を開放することに躊躇はない。
世界に自分を留めるためには、しがらみが必要だ。
血縁関係であったり、夫婦であったり、仕事の責任であったり、なんでもいい。しがらみが多ければ多いほど留まる理由になる。
誰もが多くの人間から見て特別でないとしても、特定の人間に対して特別でさえすればいい。
自殺君のことを今考えると、掲示板に書き込んだのは「かまってほしい」と自分を世界に留めるためのサインだったのかもしれない。
引き止めるのが自殺君のためだったのかはわからない。けど自殺したいという心情の中に、かすかに自分を世界に留めて欲しいという願いがあったのも事実だと思う。
「生きたい」ではなく「留まりたい」なのは、生命を維持すること自体に昔ほど苦労が伴わないことも無関係でないと思う。生きることに必至であれば、何故生きているかなど考えることもなかったかもしれない。
しかし一度考えてしまったら、もう考える前には戻れない。
死を恐怖と感じるなら、この世界との関係を深めることでしか心の平穏を得ることはできないのではないだろうか。